昭和40年06月16日 朝の御理解



 「量よりも質」と、「質よりも量」と、言ったような事を、どちらが本当だと思われます。例えば、信者の数が多い、と、いうことがよいのか、それとも信者の数は少なくても、なかなか質がいい、と、「一粒よりだ」と、というような場合に申しますねぇ「量よりも質」とか「質よりも量」とかと言った様な事を、玉水の湯川という先生にある方が、大変なもう夜、夜昼をついての、お参拝者ですもんねあちらは。
 大変なお参りなんです、大変なそのお参りであることを、湯川先生にその申し上げたところ、湯川先生が「まぁだこんくらいのことじゃ」と仰ったっち「大阪駅ば見てみなさい」っち(笑)、「大阪駅のあの出たり入ったりしとる量ば見たら、まぁだまだ少ない」と仰る、ね。これなんかはまあ、量の事を言うておられると思うですねぇ、本当に世の中には難儀な氏子というのが沢山ある。
 「例えばどこからどこまで旅行をするという人達だけでも、あの大阪駅にあれだけの人が集まるのに、まして、人の難儀を、取り次ぎ、助けられるところの場だあるところのお広前に、このくらいの人数じゃぁ」、とまあ仰ったんですねぇ、私共も一・二回おかげを頂いたんですけれども、もう本当にそれこそ、何時でも大祭のようです。これもやぱり大阪の、奥平野と云う所に、片島せんという先生がおられる、女の先生で大変お徳を受けられた先生が、ある時に、見事なお手洗い鉢のお供えがあった。
 もうこの先生はいちいち神様からお伝えがあっておった。只今見事なお手洗い鉢のおかげを頂かれたお届けがあった時に神様にそのことを、お届けされた、「どうぞ神様あの大きなお手洗い鉢の水が、毎日干上がってしまうような、沢山の信者を、このお広前に、お集め、お引き寄せを下さい」と言うて、お願いをなさった。ところがね、それこそ何時も、打てば響くように神様がご返事を下さるのに。
 神様が、知らん顔しておられたというのでございます、それに受け返事がなかった、ね、重ねてまたそのことをお願いされると、神様からです、「沢山の信者というよりも、このお手洗いの水で、ね、真心を清める清めたいと願う氏子が、お引き寄せを頂く事を、何故願わんか」と神様が仰ったそうです。「この沢山のお手洗いの水が、毎日干上がってしまうくらいに沢山の、信者氏子をお集め下さい」と言うて願われたら。
 神様がご返事がなかった、重ねてそのことをお願いされると「このお手洗い鉢の水で、ね、手口をゆすぐと言うけれども、あれは心の手であり心、心の魂を清めるのであると「真実魂を清めさして下さい」と言うて願う、氏子をお引き寄せ下さいと言うて、何故願わんか」というお伝えがあったということです、これなんかは沢山の信者よりも、真実本心の玉を磨かせて頂こうと願う氏子が。
 お引き寄せを頂かれることを、言うておられるんですねぇ。「量よりも質」「質よりも量」、どちらが本当(笑)。私もそれを思うんです、ね、椛目の御広前で、朝の御祈念に、これだけの人数の方が御祈念をしておられるとです、やっぱりお広前いっぱいのような感じなんだ、ね。けれども例えば今度、御造営が出来るという、まそれが実現していきつつあるそのお広前だったら、言わばその御広前が広くなれば。
 少ないように見えるだろうとこう思う、折角立派な広々としたお広前に来るのでございますから、やっぱり沢山の信者がそれにふさわしく、信心の稽古をさして頂かれる、おかげを頂きたいとこう、まあ思うのです。ね。そこで私はそのじゃ昨夜も皆さんに、聞いてもろたんですけれども、明けても暮れても最近思うこと、それは「どうぞ速やかに、御造営が御成就になりますように」っていったような事はもう、これから先も私は願うた事はないです本当に、ね。
 ここでお土盛のお届けがあった時、「どうぞスムーズに、」大体あれは五月いっぱいに、終わるような予定だったでしょ確か、そのことをお届けが有った時、正義さんがお届けをここで致しました時に頂きますことがです、昭和の「昭」の字を頂いた、ね。その字を、いわゆる分解してみると「日を召」と書いてある「ははぁこれは日にちを食うな」と私は思うた、そのまま私はその後にそのぉ。
 なんかうっかりしておったんですけれども、ある時月次祭の後ででした、お湿りがあったり、何やらかにやらでその、あちらがその長引くわけなんですね土盛りが。そんな事の話があっとりました時に「あぁほんに、一番初めのお届けがあった時に、昭和の昭の字を頂いたね」と、私は思うた大体昭和の昭の字という字は、分解をすると今申しますように、日偏に日という字を書いて召という字が書いてあるから。
 これは日を食うという事であろうけれども、大体だいたいこのう、昭和の昭の字はどのような、意味のもんだろうか?と、字の意味というのはったら久保山さんがすぐ、字引を、2階から借ってきてから調べよった。そしたら何とか「光る」とか「輝く」とかといったような意味でしたね、それからその翌々日でしたもう弟の嘉朗さんがやって参りましてから、「先生あれをもっと詳しい字引で引かせて頂きましたらね。
 お寺お寺さんとか、お宮さんとかのね、御造営という意味だそうです」っち、そげん書いちゃったっち字引に、私それ頂いてから本当にびっくりいたしました、神様の知恵を持ってお知らせ下さるということは何時もそんなに深いことだと、ただこちらが探り当てきらんだけの事ははぁ、ね。お宮さんお寺さんのです、御造営の時に、使う字だそうです、それも光り輝くというような意味合いを含めてなんです、ね、「はぁそう言う様な事だったか」と、私は思うたんですけれども、ね。
 そういう風に例えばそれが日にちを、日数を例えば「食う」とか「日数がかかる」とかという、ということがです、ね、これは結局例えば私なら私に対して、そのまあ期間とでも言うかね、その御広前にふさわしい、その中心であるのにふさわしい、信心に飛躍していかなければならない、それだけの力を受けなければならないっていう、神様がその日を稼がして下さる、そこで私が思う事は、明けても暮れてもです、あの御広前に今度出来る、御広前にです、ふさわしい私、ね。
 寸の上で、言っ、申しましても、丁度ここの、ここん土地の二十倍からありますし、建物の上から言うても、二十何倍あります、言わば私が二十何倍大きく、ならなければならない、豊にならなければならないのであるという事、ね、いやこのままの私が、ただあちらへ、ただ移ったというだけではいけないということ、まあそこんところを、まあ思うわけなんですけれどもね。
 あちらに、大きなお広前に行ったらやっぱり大きなお広前にいっぱいの人が、集まるようになっておったと、それが質よりも、やはり始めから質がでけておるはずがないから、量が集まるようになる。言わば私共、体験することですがその、古いお広前なんか、あの、お教、お教会なんかに参りますとですね、日頃はいっもお参りがないんです、もう閑散としてるんですねぇ。
 ところが大祭ともなるとやはり、昔の信者がたくさんおるもんですから、なんとはなしにそのお広前いっぱいになるといったような教会があるです。ね。これなんかはもう、質よりも量になってしまってるっていうような感じが致しますねぇ。そこで私は思うんですけれどもね、どうでも私はやはり、質よりも量ではなくて、量よりも質の方を、取らなければならんのじゃなかろうかと。
 さっきにも申しました玉水の湯川先生の仰った事、片島先生が神様から、お気付けを頂かれた事、それから思うてみるのに、これは同じだという事です「いやぁこの位な事で大阪駅を見てみなさい」と、仰ったというのもです、湯川安太郎という先生がです「私がもっともっとりっ立派な駅長さんにさえなりゃあ、まぁだまぁだこん位のこっちゃぁない、沢山の人が出入りをする様になる」っていう事であろうと私は思うた。
 たぁだお参りが多なりさえすりゃぁ良いというのではなくてです、「問題は中心の私なんだ」と問題はちゅっ「問題はそこの総代達なんだ」と「問題はそこの幹部の人達なんだ」と、「問題はそこに根付きよる信者さん達なんだ」と、ですからなら量質よりも量とか、量とかよりも質とかとその質というのはどう言う様な事を以って質とするか?と「はぁあちらの教会には、ずいぶんお金持ちの信者さんが多い」と。
「はぁ身なりなんかでも立派である」と、「はあ、教養の高い信者さん達が、沢山あそこにはおると、と云うような事ではないと、私は思うんですね、私そんなことを、おぉどういうような意味合いのうんなら、お広前がまたは信者がです、おることが「質の」ということになるだろうかと、私は思わせて頂いたら、今日神様から「一生懸命の信者」と仰いましたですね。
質とは、御道で、御道の信心でいう、良い質の先生とか、良い質の、者というのはです、ね、一生懸命の信者であるという事、してみると、信心が巧者であるとか、お金があるとか、タイプが良いとか、学問をしとるとかと言った様な意味ではないことが分かりますですね、ね。それはその段階がございましょう、だからまずお参りに一生懸命、の信者が、ね、お参りだけでは出来ますまい、ね、
 本気で改まらせてもらうことに、本気で磨かせて頂こうという、その思いに一生懸命な信者ね、本気で「御用させて頂きたい、御用させて頂きたい」と願う信者一生懸命を以ってね、そこに私は信心の過程を感じるのでございますけれども、どの程度でもよいから一生懸命の信者のあるところを以って、私は一生懸命の信っ量よりも質の信者があそこには揃うとるということが、言えるのじゃないだろうかとこう思います。ね。
 そこで皆さん一つ思うてみなきゃいけません「果たして自分はどの点においているかです、一生懸命のものを持っておるだろうか」ということなんです。ね。その一生懸命の、信者、「一生懸命の信心の稽古をさせて頂こう」と願う信者、勿論それは信者だけのことじゃありません、例えばなら私でもそうなんですね、本気で信心をし一生懸命にと、願う先生、そういうところには一生懸命の信者が、必ず出来るだろう。
 その一生懸命の信者を以って、「質の信者」ということが言えると、巧者になるという意味ではないということ、ね。そういう一生懸命の信者のおる所にはです、ね、一人の例えば信者、一生懸命の信者がおるならばです、その周囲に十人も二十人もの、まあ一生懸命じゃなくてもですたい、いう信者が、量の、量が必ずついて来るのじゃないだろうかと私は思うですね、
そしてその人達が一生懸命、例えば現在の椛目の場合なんかは、まあ実に、信者の数が少ない、ただ有り難いと思うことは椛目の場合は、もう、ほとんどが一家を挙げて信心をしておるという事が取り柄のような感じがする、ね。その一家を挙げてが、言わば一生懸命という、言わば、金光教信者の家庭というものがです、出けてまいります時に、ね、必ずこれに、量の信者がついて来るのだという風に私は思うんですけれども、どうでも一つ、おかげを頂きまして、まず私共の信心をです。
 質をまず磨き上げて行かなければならない、その質に量というものはついて来るものだと、もし量がついてこないならば、それは本当の良い質ではないのだと。私等の合楽なら合楽という教会にの、中心にならせて頂いて、どんなに私が一生懸命に、やっとりますと言うてもです、もしあのお広前がいっぱいにならなかったならです、それは先生の信心は本なもんじゃあないということになるのです。ね。私が一生懸命の信心なら、総代幹部、その方達が、一生懸命になるだろう、
 そのように一生懸命なら、それに又、ね、量の信者は、必ずついてくるのであると私は確信致します。そういう意味合いでです、ね、もう近い将来にですね、ここよりも、言わば十倍も広いというお広前へ、まぁ移らせて頂くわけなのですから、その十倍もの、言わば、量がです、皆さんの信心についてくる、だけの質の信心が出けておるかということを反省させて頂きながら、信心を進めていかなければならないと思うのでございます。
(終わり)